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やっとウグイスの初音を聞く [北窓だより]

鶯の声を聞いたと近所の人は言っているのに、私はまだ聞けず残念に思ってましたが、やっと今日、朝の裏山で耳にしました。もうちゃんと完全にホウホケキョと鳴いたのでした。やはり、ちょっと心が躍り、立ち止まって耳を澄ませたのでした。そして声を聞かせてくれたウグイスに、アリガトウと言いたい気持ち。
その道筋でよく出会う人に話すと、彼女はもう3度ほど聞いたということ、ちょっとまだ下手で、ホ、ホケ、などいうのもいたけど…と。

今日はその後気持ちが悪いくらい暖かくなり、5月から6月の初夏の気温だとかで、内陸ではもう25度を超えているようです。しかし晴れて陽射しは強いのに、なんとなく辺りは靄がかかった感じで、遠くの山並みは見えません。これは黄砂がPM2,5を引き連れてきたのではなかろうかと思ったりする。それでもウグイスの声を聞いただけで嬉しくなるのは不思議だが、やはり寒い冬が終わりいよいよ春になったという、生き物の持つ本能的な喜びなのだろう。
また、これまで蕾はふくらみながらなかなか咲かった土手の河津桜が、やっと咲き始めたのも嬉しかった。そのピンクに染まった梢も暫らく立ち止って見上げた。

明日で大震災から二年になる。その後の不安で暗くなっていく日々が、なんだか遠い日々のような気がする。これは被災地でなく、普通の日々が何事もなかったかのように続いていけるからだろう。こんな状態が物事を風化させていくというのだろうか。そのことを改めて考えなければと思う。

ドキュメンタリー映画「シェーナウの想い」を観る。 [北窓だより]

これはドイツ南西部、黒い森の中にある小さな町シェーナウ市(自然豊かな、人口2500人くらいの静かな町)で、チェルノブイリ原発(2000K離れているが、ここにも放射能が降った)をきっかけにして、親たちが子どもの未来を守るためにと、「原発のない未来のための親の会」と立ち上げ(フランスの原発からは30キロ圏内という)、原発反対から始まり、最後には自分たちの電力会社を作るまでに至り、今ではそれを外部にも送電できるくらいになったという、「電力の革命児」と言われている町の、そこに至るまでの過程を描いた自主上映のドキュメンタリー映画であった。

ドイツが国としても即座に原発は作らないという方向に舵を切ったのに、事故当事者である日本では、行く末はその方向を目指しているもののという糖衣錠をかぶせた形で、国が発稼働にどうして踏み切ってしまっのたか?  と思っていたが、この映画を見るとなるほどと思わせられた。このような市民意識がすでに育っていたのである。


もちろん国土の規模や風土の違い、民主主義の成熟度などの違いもがあり、比較はできないという思いもあったが、これを見ているうちに決してそうではなく、状況は同じなのだと思えてきて、日本でも不可能ではないと思え、それはこれを日本で公開した人たちの考えでもあったようです。

市民たちが太陽光、風力、水力など自然エネルギー発電をして、それだけで成り立っている市民の電力会社…。しかしそこの住民が特別であったわけではなく、専門家もいるわけではなく素人ばかりの平凡な市民たち、ただ会を立ち上げたことで、そこに外部から専門家や学者が集まってきて知恵が集積したということなのであった。
また電力会社という、金儲けを主として考える、独占の企業の体質は、どの国であっても同じ構造を持っている。環境にやさしくなどと考えるより、どうすれば収益が上がるかが優先し、システム自体がそうなっているのである。たとえば、節電したほうが安くなるより、たくさん使ったほうが安くなるというシステム、またドイツにも「原子力ムラ」の構造があり、それに市民が抵抗する難しさも同様にあるとのこと。それらを一つ一つ克服しながらここに至るまでが、1時間のドクメンタリーで描かれたものでした。

また町自体も、全員がこの運動に賛成したわけではなく、ほとんど5分5分、それを集会や戸別訪問で、この方向にまとめていったという経緯があります。もちろん投票や決定となるとそこには感情も無視できません。小さな町で誰もが知り合い、最終決定した後も互いに共に暮らさねばならない人間関係、シコリが残らないかと思われますが、そうはならなかったことにも納得できるものがありました。

折しもその夜はTVでマイケル・サンデル白熱教室があり、議題は「これからの復興の話をしよう」でした。これまでの架空の論題ではなく、現実の話、東北在住の1000人との議論で、(これは初めての試みとのこと)、当然のことですが、サンデル氏は、結論じみたものを自分から決して出そうとはせず、議論の中から自然に出てくるのを待つのですが、この時の議論にシェーナウの町の例に通じるものを感じたのでした。

そこに出た論点の多くについて5分5分でした。そして最後のほうで復興事業が遅れていることに対して、事業のスピードを上げるためには住民の合意がえられるのを待たないでもいいという意見と、そうしてはいけないという意見、この微妙な問題が出たときに、ある意見に氏は頷きながら、合意と納得とは違うということですね、と言ったのです。

合意は、意見が一致すること。しかし納得はそうではなく、意見は違うが、状況や相手の意見などを考えた結果、そうせざるを得ない、そうするのも仕方ないなあと頷くことだからです。そしてその納得は、お互いの良く話し合い、考えた末に出るもので、そのためにも十分な議論、話し合いが必要だと氏は結んだのです。

シェーナウもたぶん原発反対と母親たちが立ち上がってから、十分に話し合い、活動し、知恵を絞る間に最初はほぼ5分5分であった反対派を納得させ、町全体としてその方向へ進んだのでしょう。最初は互いに意見は違っていたが、こうなってみればよかったと納得したのだと思います。サンデル氏も言ったように、それが同じところに暮し共存するもののやり方だと私も納得したのでした。
そしてこの東北在住の1000人の議論の現場を見ながら、これは氏が意図したものでしょうが、最初の意見で、「東北人は、他人の悪口を言って自分も相手も気分が悪くなるより、自分が我慢すればいいと考えるようなところがあるので、このような議論の場は成立しないでしょう」という意見を取り上げ、最後はそうでは決してなかったことが証明されたような形になったのも、互いに意見を率直に出し合い話し合っていくことの大切さ、それが民主主義なのだと、これも納得させられる事柄でした。

会場では『原発をやめる100の理由』(築地書館)という本も売られていました。ここには「ドイツから」としてドイツの現状と、「日本では…」として日本の現状の比較がなされています。

『栃尾又温泉行き 三十年』について。 [北窓だより]

年の瀬もせまり、今年も数日を残すだけになってしまいました。
皆様も何かといろいろとお忙しい事でしょう。私も例年なら、暮れからお正月にかけての温泉行きの準備に取り掛かっているところですが今年から、もうご推察かとも思われますが取りやめることにいたしました。

その時の様子はこのブログで書かせてもらっており、その最後は今年1月5日で、そこには27年目としておりました。しかし実は30年目だったのです。この一世代ともいえるその年数に驚くとともに、少なくても6人ほどで出かけていた私たちグループも帰るときには4人になってしまっていたことからも、この行事も潮時では…(ということもブログには書き込んでいたのですが)と、結局ここでいったんケリをつけようという結論に至りました。というわけで年末年始の温泉行きはやめ、そのけじめとして、私が記録してきたメモ風のものにここで書かせていただいたブログを合わせて、その記録を冊子として刊行することにしたのです。
しかしこれは全く個人的な思い出にすぎず、参加していない人には何の興味も面白味もないものに違いありません。最初はコピーをし、製本だけを頼もうと考えていたのですが、結果としてこのようにコルボプリントさんに頼んで、見かけだけは立派な一冊の本に仕上げていただくことになりました。
考えてみると私のメモ風記録だけであれば到底考えなかったことでしょう。ブログの文章があったからで、それがあれば何とか読み物風の味わいも出てこようと思い考え付いたのです。この点でも Happy Blog という場を設定してくださったOさん、またそれを読んでくださっている方々にも感謝しております。又この場で紹介もしてくださっており、ありがたく思いました。
印刷所に頼んだので最初考えていたより多く作ったものの、採算の合う最小限度の部数であり、配ったのもまだ身近な方々だけです。参加者へも、締めくくるに当たっての打ち上げ会も今年はそれぞれ日程が合わず来年回しにしたので、まだ手渡してはいない状態でおりますが、このブログ誌面を借りてお礼とご報告をさせていただきました。ありがとうございました。

今年はことのほか寒さが厳しいようです。皆様どうかお元気で、来年もまたよろしく、と申し上げて今年最後のブログといたします。
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「田村能里子講演会とインド音楽コンサート」 [北窓だより]

このところ年に一回インド音楽(シタール演奏:堀之内幸二氏)を聴きに行っているが、今年は女性としては珍しい壁画作家の田村さんとのライブ演奏である。台風も幸い海上にそれ、秋晴れとなった昨日の事。

油絵画家として模索中に田村さんはインドに行き、砂漠で生きる女たちの姿に魅せられ、そのような酷しい自然の中で生きる女たちを専ら描き続け、それが世界各地で壁画を描くことによって大きく開花したようである。その生涯と作品が、第1部の画廊主との対談形式で語られ(「誰も歩いてこなかった絵筆の道」)、第2部では主要作品がほぼ年代順にシタール演奏とともに大型のスクリーンで映し出される、コラボレーションだった。

中国の西安の「唐華賓館」の壁画を頼まれたことを皮切りに(40歳を過ぎたころからのようだ)、その後次々に59箇所の壁画を書き続けたという。日本だけでなくバンコクなどもあり、豪華客船飛鳥Ⅰ号、Ⅱ号、横浜のみなとみらいのコンサートホールなどもある。描かれるのは女性ばかりで、しかも自然の中に溶け込み生き物たちと共に戯れ楽しむ集合図で、そのためホテルはもちろん病院や老人ホームなどもあり、禅寺の襖絵も依頼されたというのも興味深かった。

壁画であるから足場を組んでその上に立って描く。しかし飛鳥では船中のため足場が組めずロープにつるされたゴンドラに乗って描かねばならず、全体像を確かめるためにはいちいち足場を下りねばならなかったり、肉体的な労力も想像に余りある。細身の田村さんから迸り出るその情熱と力に感嘆した。
それら壁画を映像にした技術も素晴らしく、アップにしたり部分をズームしたり、キャプションやナレーションもあり、動画ではないものの田村さんの画家としての足跡や自然や絵画に対する考え方などもおのずと辿れて次第に惹きこまれていった。そしてそれは絶え間なく流れるインド音楽のシタールの演奏(この日のために新たに作曲したものもあるとのこと)が素晴らしく効果的で、絵画と音楽が共に響きあって画面の壁画の世界に吸い込まれていくようだった。会場を後にしてからもその旋律が耳の底にいつまでも残った。
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「洞門山」保全決定の最終報告 [北窓だより]

横須賀線の電車が北鎌倉駅に滑り込む寸前の左手にある緑地、鎌倉の玄関口ともいえる通称「洞門山」。
ここが大きく宅地開発されることになって、それへの市民の反対運動が生じた時、そこを通過するものの一人として最初のうち開発業者の説明会にも出たり署名も集めたりしたことから、ここにも書きましたし、またその後ほぼ全面的に残されることに決まったということも、確か書いたと思いますが、今年3月はっきり決定したようなので、ここに最終的な報告をさせていただきます。

宅地開発計画が明らかになったのは、08年3月。その後さまざまな経過を経て、最終的に市が宅地開発業者から約1億9千万で取得したとのこと、またそれを受け保全活動を行ってきた市民団体「守る会」が集めた募金や「宇崎竜堂のチャリティーコンサート」(これについてもここに載せました)の収益金などと合わせ257万円を、この9月に「市緑地保全基金」として寄付したとのこと。
そして今後、「守る会」は行政による洞門山の安全対策を見届けたうえで解散する予定、ということです。一応、めでたしめでたしです。    以上最終ご報告まで。
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「レクイエム」を聴きに行く。 [北窓だより]

年下のTさんが属している混声合唱団コール・ミレニアムが 第10回記念演奏会として、東京芸術劇場で行う、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」を聴きに行った。一昨日(9月8日)の事である。
劇場もリニューアルされたばかりのオープニング週間、その改装なったばかりの大ホールでの演奏会である。
共演はフィルハーモニックアンサンブル管弦楽団(指揮:黒岩英臣)、独唱:佐々木典子 大島郁郎)特別出演としてハープとオルガンが加わっている。
  第一部は、管弦楽団による モーツアルト晩年の3大交響曲の一つ第39番(変ホ長調)。  
第2部が、ヨハネス・ブラームス「ドイツ・レクイエム」 作品45であった。

Tさんはこの他コール、フリーデなどにも属していて、主としてレクイエムを長年歌っている。

最近は大震災などもあってレクイエムを歌う人も多くなったということだが、この合唱団も演奏会がその翌日の3月12日に予定されていたが、それでも東北の人々に対しての祈りを届けようと、あえて開催しレクイエムを歌ったらしい。

今回のレクイエム 《ドイツ・レクイエム》は、いわゆる教会における死者のためのミサ曲であるレクイエムとは性格が違っていて、普通ラテン語で歌われる歌詞をブラームスは、ドイツ語の聖書から引用し、合唱が盛んであった当時の一般市民が親しみやすい演奏会用のレクイエムを、10年がかりで完成した曲だという。
しかもこれを作曲した契機は、恩師であるシューマンの死、彼自身の母親の死であり、そのため内容は残されたものへの慰めと癒しがテーマになっている。そのため不信心者に対する脅し(と私には感じられる)「怒りの日」の部分があったり、その後の天国行きを奨励する(同前)歓喜の歌があったりするのではなく、全編に悲しみが漂い、しかしその中でも微かな喜びが混じりこみハープやオルガンによって神秘的な境地、慰めへと導かれるといったような構成になっているようだった。
挨拶の中にも、これは「死の悲しみを歌い、愛するものを神のみもとに送り、悲しんでいる人々に慰めが与えられるよう願った作品」であり、いまだ心癒えぬ東北の方々に、心を込めて送りたいと思います。」と書かれてあった。

実はKさん自身も長年共に暮らした相棒を失って間もない時期の練習の日々であった。これを練習し歌うことで、悲しみに浸り、また慰められ救われたようだと語っている。
歌が持つ力を感じた。 
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コシアカツバメを見に行く。 [北窓だより]

今日も酷しい暑さ、北の空には盛んに入道雲が湧き上がっています。
昨日は曇り空で、蒸し暑いながら歩きやすかったので幸いでしたが、午前中コシアカツバメを見に行きました。ツバメが少なくなったと報じられ、そんな話をしていると、近くの小学校にコシアカツバメの巣があるという情報を耳にした人に教えられ、案内してもらったのです。

夏休み中は野球部など部活動があるので校門は開いているとのこと、入ると直ぐの玄関にそれはありました。すでに先客があり、三脚を立てて眺めている男性の姿にすぐそれと分かりました。あとからまた別の男性が立派な望遠カメラを持ってやってきます。
巣は3個あって、一つは巣立ちしてしまって空き巣、2つはまだ子育て最中のようでした。

普通のツバメは、斉藤茂吉の『赤光』の中の有名な一首「のど赤き玄鳥(つばくろめ)ふたつ梁にゐて垂乳根の母は死にたまふなり」からでも分かるようにノドが赤いのですが、これはノドではなくコシが赤いのです。また巣の形も、ツバメはお椀状ですが、これは徳利を横にして天井に貼り付けたような形、玄関へのアプローチに立つ垂直な柱と天井の直角になった隅にそれぞれ作られていて、ツバメのよりは少し大ぶりの感じ、ツバメ自体もちょっと大きく、尾羽も長い。
お椀状だとカラスなどから幼鳥が狙われやすいですが、これはその危険がなく、また垂直の柱や壁の上だと蛇も登れないでしょうし、また入口が一羽がやっと入り込めるような小ささで横を向いているのも、安全は完璧だろうなと思わされます。この日の午後、激しい驟雨に見舞われましたが、こういう時も、この巣であれば安心ですね。
ということは、中に鳥がいるかいないか、なかなか分からないわけで、じっと暫らく眺め続けていなければなりませんでした。すると、あ! 飛びました。続けてもう一羽! 
カップルが一緒に狩りに出かけるようでした。暫らくして、ほとんど同じタイミングで2羽が帰ってきます。鳴き声が聞こえないのはまだ幼いのか、そういう巣の構造なので声が漏れないのか? 何度か目撃しましたが、いつも一緒に行動するようでした。 
もう一つの巣は、ちょうど反対側にあって、そちらからもカップルが出てきます。双眼鏡を当て、確かに腰が赤褐色であることを確かめました。また巣の中にいてじっとこちらを眺めているらしい姿も見えました。「またうるさい人間どもがやってきているな」などと思いながら眺めているのでしょうか。

暫らく彼らの行方や飛び交っている姿を仰ぎ見たり、またいつ帰ってくるか、またいつ出ていくかわからない姿を待ちつつ巣を眺めた後、頻りに写真を撮っている男性たちを残して私たちはそこを離れたのでした。
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ヒグラシが鳴きました。 [北窓だより]

この数日猛暑続きですが、昨日からヒグラシが鳴き始めました。
昨年は20日ですから、今年は少し遅れているようですが、これを耳にすると私は、ああ、また夏が来たなあ!という思いに打たれるのです。少し物悲しく、寂しさをそそるこの鳴き声に…。

「夏は夜…」といわれますが、このヒグラシが鳴く「夕暮れ」が、私に「をかし」を感じさせる一番印象的な光景だと言ってもよいかもしれません。
日中の耐え切れない猛暑が、日が傾くころにふっと緩んで、風さえも出てくると、たとえクーラーをつけていても、狭い部屋での不自然な冷房は段々息苦しくなって、それを消して少しは生ぬるくても風が吹き込んでくる、それに心底ほっと息をつく感じの時にヒグラシが鳴くのです。
この一瞬に夏を感じます。しかし夜になると、パタリと風は止んで、今の時代ホタルを近くで目にする環境もなく、昔のように縁台で夕涼みという風情でもなく、夕食後は部屋に閉じこもってTVなど見るということになり、もちろん夜の街を存分に楽しむ人もいるでしょうが、そういう元気がなければ「夏は夜」とは言えないのです。
というわけで、今その夏の夕暮れのひと時に真夏を感じています。もう少しして夜が訪れると風が無くなり、また食事や食後の片づけやその他、生活の雑事や情報に振り回されることになります。
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六国見山の桜、やっと満開になりました。 [北窓だより]

全国的に遅れていた桜前線も、急ぎ北上していますが、六国見でも満開を迎えました。
ここは山桜や大島桜といった古い種類が多く、またその下で花見をするというよりも、里や畑から眺めたり、尾根筋を歩いて鑑賞するような感じですから、街中にある公園とは違った風情が楽しめます。特に今年は、初夏を思わせる暖かさと雨が通り過ぎた今日、幕が切られたように、白と薄紅色の花が、急に芽吹き始めた木々の若葉の、まだ芽吹かない常緑樹の深い緑の中で落葉樹の黄色っぽい緑、白っぽい緑、鮮やかな緑などのグラデーションに華やぎを加え、微妙で柔らかな春の山の風景になっているのに驚きました。
例年ならばもっと緩やかな変化をするはずなのに…。今日からまた、お天気は崩れるとのことですから、今日がまさに見頃でしょう。
ソメイヨシノも、高校の周りのは前日の雨に打たれ多く散っていましたが、それでもまだ残っていましたし、民家の敷地にある大きな古いソメイヨシノの少し遅れていたのは、まさに散る寸前という感じで、爛漫と咲いていました。でもこれは空き地になっているため残っているもので、この土地が宅地になれば伐採されるか、小さく剪定されてしまうことでしょう。

それで気がついてみれば、我が家の小さな庭も一斉に芽吹きと開花、花は雪柳、ヒイラギ南天、黄水仙はもう終わりごろで、何故か立ち壺スミレが一面に広がり、サクラソウ、ムスカリ、雲間草など。早くも都忘れやシャガの花が咲き始めました。これから眺めるほうの眼も、またそれに急かされて、怠けがちながらそれらの世話に、わが身も忙しくなりそうです。
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ウグイスが鳴き始めました(震災1年目) [北窓だより]

2、3日前から、今年初めてウグイスの声を聞く。
沈みがちだった心がやはり弾む感じになる。まだ拙いのも可愛らしく、励ましてやりたくなる。

今日で東日本大震災から一年がたちます。昨日、「原発最前線の町で生きる」南相馬市の日常を一年間、住民の生の言葉だけを拾って淡々と綴ったNHKのTV番組を見ました。ほとんど解説をせず、放射能に汚染された地域での、日々の生活とそこで洩らす人の短い言葉、その背景にモリアオガエルの産卵から桜の開花、鮭の遡上など四季の風景を映し出しながらのドキュメンタリーは、ただ息をのみ見つめるしかありませんでした。

今日は時々陽が漏れてくるものの一面に雲が広がっていて、被災地は雪のところもある様子、あの日、この辺りは朝は冷え込んだものの日中は良く晴れていたのでした。とても穏やかなので、私は急に思い立って海辺に立つ美術館に出かけたのです。見終ったのち、館の外に出ると海を眺めながらサンドイッチを食べ、そして帰途についたのですが、帰り着いて間もなく、大きな揺れを感じたのでした……。
このような帰宅難民にもならなかった幸運な私でしたが、それでもその後いろいろと考えさせられ、反省させられ、学ばされる日々を過ごしました。この国の人たちのほとんどが同じだったろうと思います。
TV番組での放射能地区の人たちの短い言葉は、皆胸を刺してくるものでしたが、アナウンサーに「士農工商」という言葉を知っているかといい、今はその逆だなと泣きそうになる顔を歪めながら絞り出すように吐き出す言葉、「東電は世の中を動かせるが、俺たちにはそれができない」今の世の中なんだ…、というのもその一つでした。
確かに「商」という企業という経済力・資本、お金、損得が世の中を動かすわけで、農・工、漁のように生活の糧をもたらすものはその下にある時代。この言葉が作られた江戸は平和な時代でしたから、「士」は武力ではなく、為政者やいわゆる知識人を指すといってよく、そうすると…という思いもしたのでした。
しかしまた、為政者の混乱の中でも立ち上がるこの国の民の力の強さをも感じながら、第二の敗戦のようなこの国は、「過ちは繰り返さない」という風に変わることができるだろうか、という思いも、自分をも含めて考えたりもしたのだった。
しかし四季はその循環を変わらず続けていきます。早咲きの河津桜が、やっと満開になったと報じられましたが、この辺りに最近植えられた河津桜の並木は、蕾は膨らんでいますがまだ咲きません(1,2輪程度)。
それでも春は、確実にやってくるようです。まだ日々余震も続いていますけれど。
大震災一年目に当たり、被災された方々、犠牲者に、黙祷を捧げつつ…。
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