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「東京コール・フリーデ定期演奏会」に行く [北窓だより]

昨日、友人の合唱団の演奏会があり今年も聴きに出かけた。会場は、渋谷区の文化総合センターのホール。演目は、G・フォーレ「レクイエム」とA・キンタナ「 Mass From Two World」その他である。
いずれも被災された地域の人々への見舞いと早い復興の祈りを込めて、練習し捧げられたものであった。
フォーレの「レクイエム」は、よく知られているように「怒りの日」がない。フォーレはこれまでのとは違う新しいミサ曲を作りたい気持ちがあって、「死は喜ばしい解放」とのメッセージを込めたかったということですが、全体的に静かで美しいハーモニーに貫かれている感じがした。それもその音色が流れのように微妙な変化していくようです。解説によると、かれの音楽の特徴は、半音階的な和声と揺らぎと施法性という(知識のない私にはさっぱりわかりませんが)、とにかく和声の揺らぎの快さを感じたことは事実でした。最初は不評だったとのことですが、今聴くと悲しみを乗り越えた平穏な心境、哀悼の気持ちの漂った曲に感じられる。
キンタナのミサ曲の2つの世界というのは、ミサ曲の様式が固まり進化していった時代と現代の南米のリズムとシンセサイザーの迫力を持ち込んだ現代を指しているとのこと、葬儀の曲とは思えないほどの色彩にとんだ、活き活きした感じがありました。
それぞれプロの歌手によるソロも、音量豊かで聴きごたえがあった。
最後は、元気づけられるような日本の有名なポップス(指揮の伊佐治邦治・編曲)でした。

でも久しぶりに都心に出ると、その変わり方に驚かされます。そしていかに自分がお上りさんであるかを気づかされます。日々変化するエネルギーの坩堝ということでしょうか。それが面白いという人もあるでしょうが、疲れます。では。
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T温泉行き 27年目 (今年で幕引きか?) [北窓だより]

明日はもう小寒、日本海側は大雪が続いているようです。
例年ながら雪深い中で過ごした日々から、雪のないカラカラ天気のこちらに帰ってくるとまさに夢の中にいた感じで、今年は特に大震災があったせいか感慨深いものがありました。
T温泉では、毎年2日に新年会も開かれており、常連客の多くが出ているようで(私たちも最初に誘われ1回だけは出てみましたがその後は止めました)これは50年も続いているそうですが、その参加者のカップルが、帰るとき私たちと同じ送迎車で「今年はお宅のメンバーの人数が少ないように見えますが…」などと声をかけてきて、互いに知らん顔をしていながら、ちゃんと見、見られているものだなあ…と感じたものです。

さて私たちメンバー、確かに今年は最小になりました。出発時は7名でしたが帰るときは4人になってしまいました。36畳敷きの広間に(これも昔は中広間という名称で、宴会は大広間のほうでしたが、時代が変わり大広間は幾つかの小部屋に仕切られ野草庵という食事処になりこちらだけが広間として残った)です。
そのようなこともあって、この辺が潮時かなと思いました。
毎年同じ温泉と宿での、暮れから正月にかけての3泊4日の27年間、そこには変遷があり一つの歴史が見られます。
行基上人が発見開湯されたと伝えられる国内有数のラジウム温泉で、宿は400年以上の歴史を持つ由緒のある湯治宿、そこにたまたま生前の相棒と訪れ、今度は正月を過ごそうと発案して6人のメンバーで申し込んだのですが部屋はもう満員でやりくりがつかず、とりあえず中広間に通されたのが話の始まりでした。
1983(昭和58)年の事です。

客室の設えはないものの広くゆったりしているうえに窓も大きい。その代り全員一緒で合宿のようなものだから、一人静かにというわけにはいかないが、広いので気心も知れた者たちなのでそれぞれ勝手に振る舞うことにし、また皆働き盛りで共に飲み食いしようと合宿気分で集まってきた同士でもあるので、誂えの部屋とも言えた。それで次の年から予約の取り合いの心配のないその中広間を最初から希望することにしたのだった。
それから27年、集まる者も年を重ね、宿や温泉の設備(クワハウスとか言って村のオンセンターのような建物ができたりして、またそれが失敗して少し前に戻ったり)、また交通手段も(新幹線時代の前は急行ー東京から上野まで出てーそこから急行で小出まで行き、その後もバスで温泉までたらたら行ってました。新幹線時代になっても私たちはしばらく抵抗して在来線を使ってましたが、だんだん接続が悪くなったのでとうとう新幹線利用、しかも浦佐からのバスが無くなったのでタクシーか宿の送迎を頼むしかなくなってしまったのでした。)変遷変化し、それは政治や社会現象とも連動して、ここにフォーカスされた形で一つの歴史が辿れるのを知りました。最初の頃は朝出て、向こうには夕方ごろ着いていたのに、今は新幹線で1時間半、そこから送迎車で30分ほど、まさに通勤並みになりました。

最初に出かけた6人のうち、発起した我々と親しかったカップルが中心で、私の相棒が亡くなった後、一人は早く去って行ったものの、残る4人が今日まで残るメンバーである。その後枝葉のように兄弟(姉妹)親戚、友達の友達…といった風に芋づる風に伸び縮みして、一番多いときは、20人にも膨れ上がっていた(記憶では13人ぐらいと思っていたがメモを確かめるとそうではなかった)。それは彼らがよく行くという渋谷のバーのマスターの家族や従業員まで同行という年であり、その時は店のワインを大量に持ち込み(持ち込みも許されていた)、私たちは大いに普段飲めない名のあるワインをご馳走になったものである。(彼らはそれを積んだ車でやってきた)。
そして最近は、幼児の頃に連れられてきた子どもが成長して、伴侶や子を連れてくるようにもなってきたが、これも例外的でやはりこの行事もこの辺が限度かなと、思っているところである。
私の相棒が病を得て退職し、亡くなった年までの2年間、私たち二人はこの旅に参加しませんでした。それでもこの行事自体は続いていたのである。しかしもう一組の主要メンバーの一人が今回は加わらないことになって、振り返ると私自身も正月を過ごすのにあまりにぴったりの環境、快適であるのを良しとして、疑似故郷への里帰り…という気分でやってきたもののやはり一種のマンネリ、縛りを自分にかけていたのではないかと思い始めたのです。
それで次回はどうするか、このまま続けるかこれでピリオドを打つか、予約の申し込みをする頃まで各自考えて貰うことを提案したのだった。

最初のうち、折角の機会だからと皆で連句の歌仙を巻いたことも思い出が深い。
詩を実際に書いているのは私だけだが、職業は色々ですが文系が多く読書家もいるので、歌仙の規則を書いたものを渡し、それを参考にしながらであるが、皆苦しみながらもそれなりに楽しんでいたようだ。これもメモによると1979(昭和54)年から1987(昭和62)年、また1997(平成9)から1999(平成11)の11年も続いたようだ。大抵は36首の歌仙だが、参加者10人の時は百韻も詠んでいるし、50韻も一巻ある。旅行中完成しないときには持ち帰り、それを郵便で回したこともある。まだやっとワープロ時代で、パソコン普及などはその後の事である。
いろいろ書けばきりがないのでこの辺で止めますが、やはり日本だけでなく世界もまた転換期になったこの年、私たちの上にもある転換が求められているような気がしたのでした。
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「インド音楽 シタール演奏」を聴きに行く。(大震災8か月目) [北窓だより]

恒例になったシタール演奏を去年は風邪のため出かけられなかったが、今年は出かけることができた。震災8か月目の次の日である、ということもあってか何故か身に染みた。
インドの代表的な弦楽器シタール(共鳴胴は乾燥したトウガンからできている)と打楽器(小太鼓やつづみに似ている)、それにタンブラーという始終低音を奏でているシタールより長くて細身の弦楽器によるもので、堀之内幸二氏の独奏、そして合奏(タブラ=龍聡氏)であった。
演奏する曲は、一日の時間帯や季節の巡りに合わせたもので、朝のラーガ(旋律)、夜のラーガなどと言われ、またその旋律も演奏者個人の感性による即興性も加わって演奏されるという。聴いているとその微妙な変化による単調なリズムと旋律は眠くなるようであるが(実際私も途中うとうとした)、それは心地よく、終わってからも暫らく身体の中に旋律とタブラの響きが残っているようである。今もこれを書きながら脳裏にその音が微かに聞こえてくる。たぶんその音楽は、建築物のように構築され練り上げられたものではなく、風や波の音、せせらぎや木の葉のそよぎに似ているからかもしれない。
背後のスクリーンには、昨年行われたインド・ツアー旅行で撮った実景が映され、特に演奏の時はベナレスのガンジス川に夕日が沈んでいく光景が映し出されているので、震災の多くの死者たちへの思いも重ねられ心に染みたのかもしれない。

そして帰ってきて、7時のニュースでやっと初めて福島第一原発に報道陣が入ることができたということを知った。ただそれは細野原発相と同行するという形でとのこと。そして吉田所長へのインタヴューを聞いたのだが、それは爆発事故を聴いたとき、放射能は人間の手ではコントロールできないので、もう死ぬかもしれないと思った、といった率直な発言がなされているのを聞き驚いた。現場を見た記者の、事故の凄まじさに言葉も出なかったという報告と合わせて、やはり初めから今のようになる可能性は分かっていたのだと思いで愕然とした。やはりパニックを起こさないように隠されていたのだ。そして、しかし今は何とか安定している(しかし今後どうなるかは不明)、だから安心するようにということである。
何とか安定するまで漕ぎつけたので、所長も当時の本音を漏らすことができたのであろう。
私は慌ててこの日の新聞を見返した。しかし最前線(原発事故の復旧作業基地になっている「Jヴィレッジ」)に報道陣が入ったと報じられているが、インタヴューも原発事故の現場も報じられていない。パソコンを開け、そこでのニュースを見ると、インタヴューの記事はあった。しかし聞いたのより和らげられている感がした。今は安定しているから安心するようにという意見が前面に出ている。ところがそのうちその記事が消えたのである。この日はニュースが犇めいていた。今日本にとってはTPPが切実な問題である。トルコでも地震があり、タイの洪水はなかなか収まらない。ヨーロッパの問題、オリンパスもあり巨人の内紛、しかもこの日女子のフィギュア(これは私も楽しんだ)もあった。それらの報道で消えてしまったのである。しかしまたその後、記事は復活した。
心安からぬものがあったが、朝の新聞では第一面に、大きく原発事故の現場や所長の発言が掲載されていて、安心した。
私個人で自分を振り回していたことに苦笑しながらも、これらを考えるに、下衆の勘繰りと言われるかもしれないが、福島原発事故の現場視察は、実際は、8か月目の11日に行われ、その報道記事の発表は12日ということにしたのではないかということである。報道記事をよく読むと11日に入ったということは書いてあるが、12日に入ったとは書いてなく、「初めて公開される」という書き方になっている。すなわち11日の視察内容、記事を調整して12日に公開、発表するという事なのだ。
ここでそれらを非難しているわけではない。所長も死ぬ思いで事故の収束に懸命になったであろうし、作業員たち、記者たちも高放射能の中で必死に自分たちの職務を果たしている。みなそれぞれに懸命に持ち場で頑張っていると思うけれど、報道、マスコミというものはこういうものだということを、やっといま痛感しているという事だけを、自戒を込めてここで書いておきたかった。
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猫の額の野原 [北窓だより]

秋も深まってきました。昨日は肌寒い一日、今日はかなり強い風が吹いています。
季節の変わり目は変動が大きいとはいえ今年の秋は特に心騒がせられること多く、日々野分が吹きすぎていく感じで心が落ち着きません。

先の日曜日は台峯歩きの日でしたが残念ながら休んでしまったので、この庭のことを描くことにします。猫の額ほどの庭ですがそれでも庭らしく整えるのは大変で、飛び石のあるところだけは草取りをして、という風に放っておいたのですが、今秋の野原のように野草の花盛りになりこの風情もいいものだと眺めています。ミズヒキソウ(あちこちにはびこり猛々しいくらい)、ホトトギス(これは通路にぐんぐん芽を出していたので相当間引いたのですが)、イヌタデ(と思われる小さなもの)、ツユクサ(瑠璃色一色と花弁の周囲が白いものの2種、しかしこれはもう終わりに近い)、一番華やかな彩りを加えているのがシュウカイドウ(秋海棠)です。心臓型の大きな葉っぱの上に桃色の胡蝶のような花を群がり咲かせて、穂花とは違った派手なのでこの庭舞台のプリマドンナといったところ。
その他どこから飛んできたのか、紫色のカタバミを大きくしたような(アゲハチョウを頭を中心にして並べたような3つの葉があり、夜になると蝶が羽をたたむように閉じる)葉を持つ草が、一つの植木鉢を占領した上地面にも下りている。図鑑を見ても特定できない。繁殖力強く、黄色い小さな花も咲かせるのでカタバミ類だと思うのだが、観葉植物的なアクセントをつけている。野花は蕾を沢山持っているので、しばらくは次々に花を咲かせるのである。これら野の花に押されたのか、日当たりが悪いせいか、植えたムスカリは今年はとうとう花は一輪も姿を見せなかった。
あとは南天の実が赤くなり始め(万両の実はまだ青い)、これは樹木ですが山査子(サンザシ)の実も赤くなっている。
ツワブキが花芯を伸ばし始めた。

この辺りでは、今群がるセイタカアワダチソウの黄色とススキの蘇芳色が富士を遠景にして秋を感じさせている。紅葉はまだうっすらである。
しかし先日、円覚寺裏の六国見山麓の、河津桜も植えられた土手(宅地開発をされることになっていて長年争いが続いていたこの辺りの奥まった一画をやっと円覚寺が買い取って残ることになった)に行ってみると、その一画の下草がすっかり刈られて丸坊主になっていることを知った。確かに夏草が茂り茫々になっていたから当然だと言えるけれど、そこにあったセイタカアワダチソウの一群れとススキは見事で、ちょうどその上に白い半月までが添えられていて、絵になる光景であったのにと、残念に思った。そこにはもう少しすると、チガヤの一群れが白い穂をそよがせていたりして目を楽しませてくれたのにと、効率の良い機械による丸坊主の土手のあっけらかんとした風景を見ながら、機械に頼らない台峯の手入れの事も思い比べるのだった。しかし雑草と言われる野の花たちは逞しいので、やがてここにも飛んできて蔓延っていくことだろう。
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水木さんが描く「福島原発」(32年前のイラスト刊行へ) [北窓だより]

このタイトルの記事に引かれ、この本を取り寄せて読んだ。
これは『福島原発の闇ー原発下請労働者の現実』という、ライターという身分を隠して実際に現場に労働者として潜り込み、まさに身を挺して取材したルポ(堀江邦夫)に水木しげるさんも実際福島原発にまで出かけて見学、内部の写真資料などをもとにして制作したイラストを加えて刊行され(32年前)、今では幻となった本の再刊である。最初それほど乗り気でない風に見えた水木さんも次第にのめりこみ、自らの末端の兵士として死にかかった体験と重ね合わせて気合の入ったイラストとなったというが、その緻密さと迫力によって原発の内部に連れ込まれたような臨場感と怖ろしさを感じ、昨夜は奇妙な夢を見た。
私たちは今瓦礫と化した原発建屋しか目にしないが、あの内部は、まさに「パイプの森、ジャングル」であったようで(その内部のイラストもすごい)、その狭い隙間に身を捩りこむようにして作業をし、またその防御服は不完全で、また線量計も故障することも多く、そこで働く人は一種の使い捨てである。


折しも今朝の新聞では、原発の周辺は、居住長期禁止にとなり、夕刊では「居住禁止 最低10年」と言い、土地を国が借り上げる方向で検討に入ったとある。
いよいよこれまで隠していた原発の闇が、次第に臆面もなく晒さざるを得なくなったようである。
読書会で借りてきた、『原発のウソ』(小出裕章)と合わせ読むことによって、いっそう怖さが増した。この著者は原子力学者であり、はじめは、原子力推進派であったが、研究を重ねるにつれ、その危険性に気づき反対をずっと言い続けてきたのだという。しかしそれゆえ、原子力の世界では異端として無視されてきたのだという。
こんなことを書くとき感じるのは、これまで何も考えずそれを見過ごしてきた怠慢といい加減さによって自分自身も加担者であったのだという思いである。
しかし、原発事故が報じられ、天皇の姿が国民の前に現れた時に感じた、あの終戦時と同じようなことが今回も繰り返されたということも、これらを読んでいて分かった。

日本の原子力産業は、まさに国策であった。それゆえに国民になるべく現状を秘し、下請け労働者の間でも、原発に対する批判めいたことを言ってはならないという(昔の非国民という言い方のように)無言の圧力があったという。それゆえ事故でこのルポライターが肋骨を折る重傷を負ったとき労災にしない(労災隠し)ようにと言われたという。それを象徴するかのような、東電福島第一原発構内に立つ記念塔(無災害150万時間達成記念)がある。
この当時、そんな労働者が2~3万人いたというが(2009年には7万5000人という)。こういう人たちが
日夜、放射能を浴びつつ原発の汚泥を掃除したり、点検や修理をしたりしていることなど意識することがなかった。

また法律を厳密に適応すれば、国民の被曝限度量は1ミリシーベルト(一年間に)と決められているが(ちなみに作業員は、一日の許容限度量が1ミリシーベルト、すなわち一日で一年間の限度が許されている)、これでは福島では通用できないから、これが守られない。それですでに放射能値の高いところは、これを20ミリシーベルトまで引き上げる検討を始めたと、『原発のウソ』では書かれているが、(今朝の新聞の記事では「政権が避難の目安としている20ミリシーベルトを超え…」とあるので、すでにもうそのように変更されているようである。すなわち今や「『安全を考えて』基準を決めるのではなく、『現実の汚染にあわせて』基準を変えようとしているのです。」の通りになったようです。
また、被曝量がどのくらいになれば危険で、どこまでが安全かと誰も知りたがるが、その境目(しきい値)はない、とのこと。すなわちどんな低レベルであっても浴びることは危険で、それは年齢に反比例するようです。子供が一番危険。
しかも放射能は、人間の五感では感じられず、被曝してもそれを症状としては初期は出てこない。なぜならそれは放射能というべらぼうなエネルギーが遺伝子を傷つける、最後はバラバラにするだけだからである。ここまでが安全とは言い切れない。
そしてフクシマ原発は、広島原爆の80万発分の「死の灰」をまき散らしているということである。

今やそういう不安の中に私たちは置かれているのだということだけが、現実なのである。
そして原発は地球温暖化を防ぐということはむしろ逆で、電力が足りなくなるということや、コストも膨大であることなど、すべてウソであることもいろいろ勉強させられました。
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今年の蝉 [北窓だより]

この夏、蝉が遅れているようだと、新聞が報じていた。
私もそれを感じていたのだった。

ああ、夏が来たなあ! と感じるのは、蒸し暑い長雨がある日急に明けて、真っ青な夏空になったような夕方、カナカナと細い声で鳴く、どこか哀しく寂しいヒグラシの声を聞いた時だ。
いつもは大体ここでは中旬である。鳴かないなあと思っていたら、台風6号が徳島に上陸した日の20日、各地に大雨を降らせていたがここは晴れたその夕方、ヒグラシが鳴いた。
しかしそれはどこか心許なげだった。その後、鳴かない。
今朝、入り口の戸の敷居に蝉がいた。ヒグラシで、まだ生きていたが、すぐ捕まえられるほどに元気がなかった。「どうして鳴かないの?」と言いながら手に乗せるとやっと飛び立っていった。
今日は一日晴れたのに鳴かない。気温もまだ猛暑まではいっていない。
もちろんまだミンミンも鳴かない。

地震や放射能のせいではなく、春先の低温の影響と新聞では言っていたが、これは先日の台峯の時も話題になった。蛍も例年よりも一週間遅れているという。
一般的に、なぜか昆虫の世界に異変が起きているという。今年からある昆虫がバタッといなくなった。25年見ているのに、また環境が変わったとは見えないのに…。森がしっかりしていれば大丈夫と普通言われているが、どうもそうではなく昆虫だけがということがある…と。
でも樹自体もあちこちで樹液が出なくなった、ということもある…とも。
そして自然に付き合えば付き合うだけ、観察を続ければ続けるだけ自然がよくわからなくなる、自然は一筋縄ではいかない、自然はいつも想定外の姿を見せるのだというのが、Kさんの意見でした。
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地方の力(小野市を訪ねて) [北窓だより]

TV番組、鶴瓶の家族に乾杯を時々見る。タレントが鶴瓶さんと一緒に、地方の訪れたい処に行きそこの家族と交流する、本当にぶっつけ本番の番組という。
その他にも各地の食材を探し、そこでぶっつけに調理する、走るキッチンとか、その他、民放でもそれに類した地方の魅力を探して放映する番組が最近増えたような気がする。

それらを見ていると、日本の地方がいかに自然に恵まれ、それらに育まれた人々の暮らしががいかに豊かでゆったりした生活をしているかと感じることが多い。それでそこで暮らす人々も自ずから心豊かで親切なのだ。
鶴瓶さんも今回の被災地にも尋ねるが、そのことだけでなく、三陸海岸をはじめとする東北地方の自然、そしてそこでの海・山の恵みがいかに素晴らしかったか、港がどんなに活気づいていたか、人々がいかに生き生きと働いていたか、 現況の悲惨な有様の向こう側の姿をあらためて気づかされるのであった。
しかしこういう現況であっても、その地の人々は屈することなく立ち上がろうとしている、そのことに感動せずにはいられない。

「地方の力」というものを感じる。大昔から、その土地に深く根付いた生活をしている人の力、というか、トポスの力、伝統の力と言ってもいい。そう感じ始めたのは、小野市を訪れた時からである。
心身落ち着かずにいたとき、朗報が飛び込んできた。水野るり子さんが小野市詩歌文学賞を受賞されたという。お祝いに駆けつけるのには少々遠いと思っていたが、これをチャンスとして私自身も旅をしようと思ったのだった。その上これを機会に、帰りには神戸(従妹が震災にあい夫を亡くしている)にも寄り、17年前に震災に遭ったその地の復興の姿を見、従妹とも話しをして来たいという欲張った考えもあった。

実は、小野市を私は知らなかった。関東以北の人はあまり知らないのではなかろうか。ソロバンや刃物の生産では有名だということや、近くに揖保の糸という素麺を産するということで知っている人もいるかもしれない。私は素麺はもっぱら揖保の糸だから馴染みなのに…。
新神戸から地下鉄で15分ほど行き、そこからは豊かな緑が迫ってくる中を箱根鉄道のような(それほどの山坂ではない)電車でとことこと1時間ほども走る。そこは周囲が森に囲まれた、広々とした平野の広がる、何やら映画「サムライ」に出てくる武士たちがこもった隠れ里、桃源郷のような感じのする(少々オーバーだが)町であった。
温暖な瀬戸内海気候と豊かな自然に恵まれているだけではなく、奈良時代から続く文化が国宝級の寺や仏像を交えて遺跡も多い。温泉まであるようだ。
そこには自然と文化も育ち花開き、歌人として著名な上田三四二を先人とした文化活動も盛んで、全国的で大きな、この詩歌賞はまだ歴史は浅いが、市民の「短歌フォーラム」は20年以上も続いてきているようである。
このような文化的イベントを開くにはまず財力がいる。そして何よりも市民の意識、文化度が高くなければならない。
そして実際の行動力も求められる。経済的文化的に豊かでなければできない事柄である。

ここにも「地方力」というものを私は感じた。
この、地方の力があるゆえに、国家とか政府とか、抽象的で中央集権的な日本のトップが、オタオタして頼りがいもなく、またたとえ誤った方向に人々を導いたとしても、この地方の力、そこで根を張って生きている人々の力が一種の復元力となって、日本を復興させる(あの大戦からも)のではないだろうか、と思ったりした。

これを書いている私も実は地方から出てきた人間である。しかしまだ貧しかった時に、その地を離れ、その後は根無し草になって、東京(近辺)という吹き溜まり、にたどりついた。いわばデラシネである。しかしそれだから、それが良く見えるのかもしれない。東京と言っても、下町などというのは一種の地方である。ここにも地方力があり、それが今見直されているような気がする。

そして、森に囲まれ、自然も人も豊かなこの小野市によって、森の深みにまで踏み込んでいくような水野さんの詩集『ユニコーンの夜に』に、賞が与えられたことは相応しく、何やら不思議な縁を感じた。 
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下駄は脳にも良いそうです。 [北窓だより]

月に1度の放送(FM)になった日曜喫茶店で、「下駄の効用と楽しみ」という話題で歌舞伎役者の片岡愛之助さんと足の研究家(?)の加城貴美子さんの二人がゲストとして話していた。

夏になると、日本的な生活習慣や暮らしの知恵が見直されるが、節電というエコ生活の今年は特にであるように思われる。簾や葭簀、グリーンのカーテン、打ち水、風鈴や金魚鉢や団扇やなどなど…、ステテコまでも今年は姿を変えて登場するそうだ。それらは高温多湿を凌ぐ過ごし方を、わが先祖が知恵を出し合って作り出したものだからでしょう。

下駄も西洋人には面白く映るようで、『東北奥地紀行』を書いた英国の女性探検家イザベラ・バードも大勢の下駄の音の賑やかさに驚いている。
また小泉八雲は、路地の下駄の音に、日本的な情緒を感じると好ましく感じていたという。

しかし今日、下駄で通勤電車に乗れば、白い目で見られるし、ホテルやレストランでは断られるだろう。
しかし、しかし、蒸し暑い夏、下駄は気持ちがいい。子どもの頃は下駄を履いていたし、実は今でも家では下駄か草履である。近くのポストまではこれで行く。
ところが今、子供の健全な心身の発達にも、下駄が見直されているそうである。
裸足で過ごさせる幼稚園などがあるが、下駄はそれ以上に良いそうである。足の指の機能を発達させるという。足裏には全身のツボが集まっているというのは周知のことだが、そのツボを発達させるという。外反母趾というのも下駄であれば生じない。
特に、脳の発達にもいいそうです。(勿論子供にとってで、私のような昔人間にはもう影響ないけど)、一位が下駄で、次が裸足、いくら運動靴を発達させたところでこれに敵うものはないのでは。と言っても下駄を履いてスポーツは出来ませんね。
裸足のマラソン選手アベベを思い出します。

その上、下駄は大変経済的、エコでもあります。一足あればそれを歯がちびるまで履けます。鼻緒を付け替えさえすれば。特に子供は成長するので、靴だとすぐ合わなくなるが、下駄だとアバウトなので、一足で大人になるまで使い切ることもできる。

私はユニットバスのタイルの上で履くのも木のサンダルを使っていましたが、それが余りに古くなったので買い換えようと探したのですが、なかなかありません。木の感触が良く、またカランコロンという音も好きだったのです。
やっと見つけたのは某デパートのジャパンというコーナーで、しかも高級なものになっていて、昔の素朴なものではなくなっていました。まだ残っている古い下駄屋さんを探せばよかったのですが、思い切って買ってしまいました。台は日田の杉ということ、鼻緒というか甲のベルト状のものは藍染のしっかりしたもので、履き心地もよく満足しています。
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『東京焼盡』(内田百閒)と『いのちと放射能』(柳澤桂子)を読んでいます。 [北窓だより]

もうこれ以上大震災、原発事故についてブログを書かないと言いましたが、あと一回書きます。
なぜならそれがチェルノブイリを、或る点では超えるかもしれないと言われる状況になってきているようだからです。
今私は原発事故に対するTVのニュースをほとんど見ないし、見たくありません。だらだらした事後報告や状況説明などは新聞を見ればわかりますし、見ていると感情が波立つばかりですから。
最近それらに対応するものとしてタイトルに書いた2冊を読んでます。

『東京焼盡』は、先の大戦下の終戦の年の一年間(昭和19年11月1日~20年8月22日)にわたる百閒による克明な日記です。「本モノノ空襲警報ガ初メテ鳴ッタノハ」19,11,1、で、その日を第一日として終戦直後の21日までの300日、この間に東京は一面の焼け野原と化した。まさに焼尽である。その実態を鮮烈に、しかも克明に伝えているのには驚嘆する。若いころから百閒は日記を書き続けていて、それも文章修業との一つとしていたそうで、これもその一つにすぎず、その部分を戦後ひと纏りとして出版したのだが、「語調の潔さと凄絶さ、誠に見事に、帝都の壊滅を伝えるにふさわしい格調を伴っている」という評の通りである。
しかもこれは、いわゆる知識人などによる思想的、思索的なものではなく、また荷風のようにいかにも文学者的な感慨を伴うものなどではなく、至って庶民的な日常生活の中での行動や思い、生活感覚がその視点から書きつづられているので、今の非常時にも重なり臨場感さえ帯びてくるのだった。
空襲が激しくなったとき、絶対に疎開などしない、「何ヲスルカ見テイテ見届ケテヤラウト云ウ気モアッタ」と「序ニ代ヘル心覚え」にある。まさにその通り、よくも毎日のように空襲があり、食糧は乏しくなり、薄い粥でさえままならぬ中、よくこれだけ正確に(空襲のあった時刻や来襲した敵機の数や焼けた地域のことなど)把握し書きとめたことかと感心する。そして空襲に怯え夜もよく寝られず、防空壕だけでなく表に寝なければならず寒さに震えながらよくもこれまで書き続けたその散文魂に打たれました。3月10日のもっともひどい下町界隈の住居ではなく山の手(四谷あたり)であったのでまだ余裕はあったのかもしれないが、それも5月25日、焼夷弾によって自宅消滅。その日の記述がまた圧巻である。この時百閒は、70歳に近く、また病気持ちであった。奥さんと二人、何を持ち出すかと考える所など(この時、最後まで飼っていた駒鳥と鵯を、小さな籠に入れて持ち出そうとするところを読んだとき、最近読んだ『ある小さなスズメの記録』を思い出した。このスズメも大戦中も飼い主によって守られたのであるが…。結局火の手の中を逃げつつ果たせなくなってしまうのであるが、これも飼い鳥は火を見るとその中に飛び込んでいくらしいので、同じ死ぬなら一緒にと思ったらしい)、細々とした日々の生活が語られている。
しかしそこには百閒独特のたくまざるユーモアもあり詩情もあり、単なる記録とは違っている。
詳細は書くときりがないので止めますが、この中でも人々はやはり淡々と暮らしていく(暮らしていかざるを得ない)姿、百閒自身も嘱託とはいえ職場の日本郵船に水曜と土曜を除く毎日、出勤し続けているのである。その間、電車が不通になったり、空襲警報になったり。家の近くに不発の焼夷弾があり、自宅からの退避命令が出たので、と奥さんが四ツ谷駅まで出迎えに出たり、またお米が足りなくなり、借りたり、焼酎をもらって喜んだり、久しぶりにキャラメルを数個もらって、これがこんなに美味しいものかと感激したり、そのような庶民としての生活が具に書きとめられている。
その中でも今日の事柄と関連させて興味深かったのは、たとえば近くで爆弾が落ち火の手が上がり、もう少しでここもと思ったがそうではなく終わった時、焼け出された近所の人が表を通っていく姿を記した所である。「焼け出された人人が列になって通った。火の手で空が明るいから、顔まではっきり見える。東京の人間がみんな江戸っ子と云うわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持でゐられるのかと考えた。着のみ着のままだよと、可笑しそうに笑いながら行く人もあった。」

次の『いのちと放射能』は、チェルノブイリ原発事故に驚き生命科学者の柳澤桂子さんが、その後の残留放射能とその影響などについて書き(昭和63年10月)、それを文庫本として出版した(2007,8.15)ものに、付記として「新潟県中越沖地震で、柏崎刈羽原発で火災が起き、微量の放射能が大気と海に漏れた。この発電所は活断層の上に位置していることがわかった」を加えたものを、2011年4月5日に2刷したものである。
その「はじめに」の文章だけを紹介します。
「原子力発電に対する反対運動が盛り上がりを見せていることをたいへんうれしく思います。いろいろなものを読んでみますと、私たちは何も知らされていなかった、だまされていたのだという感をぬぐいきれません。
 けれども、もし、私が経済産業省のお役人だったら、あるいは電気会社の幹部だったらこの問題を阻止できたかどうかと考え込んでしまいました。…中略…
 ただひとつ、私は生命科学を研究してきたものとして、はっきりと言えることがあります。それは『放射能は生き物にとって非常におそろしいものである』ということです。そのことをひとりでもそれ多くの人に理解していただくように努めることが『私のいま、なすべきことである』と思います。」
ということで、ここにはなぜ放射能がおそろしいかが、誰にもわかるように説明されているのです。私もこれからこれを読むことにします。

参考までに、4月18日の朝日新聞の世論調査によると、原子力発電は今後、やめると減らす、を合わせて41%、増やすと現状程度と答えた人は56%、と出ていました。以上
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「憲法の集い」のつづき [北窓だより]

今朝、花に嵐という感じの激しい風が吹き目が覚めてしまい、なんとなく胸騒ぎがしましたが、はたしてテレビによると、とうとう原発事故はチェルノブイリと同等のレベル7になってしまっていました。
このブログは私にとって呟きのようなものであり、でもツイッターというようなところには加わりたくなく、ここでは一応公開ということであっても守られているようで安心して書けたわけですが、もうこの件については書く気持ちすら失ってしまいました。

続きは各講師の話の内容をと言いましたが、皆著名な方、有名人で、著書もいろいろあるので
それら読めば自然にどんなことを話したかぐらいは推察ができ、私が紹介するまでもないこと
です。
それぞれの人柄の表れた興味深い話で、すべてに惹きこまれ、頷かされ教えられたりもしましたが、それをここで話しても何の面白味もありません。そしてこの問題を書き続けているのは、たぶん自分の不安をこういう形で放出しているにすぎないのだと気づいたのです。それゆえ最後にただ一つだけ書いて、やめることにします。

それは今回の原発事故のことです。これに私が敏感に反応したのは、テンノウヘイカの姿が出てきて、それが終戦の場面を思わせたからです。ああ、また私たちは(私と書くべきでしょうが大きな問題なので、どうしてもこう書いてしまう)、同じような過ちをしたのではないだろうかという思いでした。私の中で原発が戦争と重なったのです。
私は先の戦争のとき、児童期でしたから、変節とか責任というようなものからは免れていました。そして戦後の民主主義教育、自由平等、平和と戦争放棄という中で育ちました。けれどもいつの間にか、原爆を受けた国として、「過ちは2度と繰り返しません」(これも曖昧な表現ですが)といったにもかかわらず、昔日本国民が知らず知らず侵略戦争へと巻き込まれていったように、原爆に相当するものを持って、放射能を地球上にまき散らすに至ってしまっているのではないかという思いに突き動かされたのです。
今度の災害は、講師の内橋さんが言っていたように、単純な天災ではなく人災を含んだ複合災害だというところに、複雑な思いと戸惑い、強いショックを与えているといいましたが、その通りです。単なる地震や津波ならば、いくら想定外でも人間はその前にひれ伏すことしかできません。しかしいったん根こそぎ倒された草木でもまた自然の力によって甦ることができるかもしれないのです。しかし原発は人間自身がもたらした災厄で、不毛です。戦争と同じです。
知らず知らず私も、原発を作ることに加担していたのです。なぜなら、私は電気というものを使っていた、すなわち原発の恩恵を享受していたからです。戦後、戦争責任ということを問われたとしたら、震災後もやはり原発事故責任ということも問われなければなりません。その時、その問いは自分自身に向けられることになるはずです。

これも内橋さんの話です。真偽のほどは、私には証明する知識はありませんが、国には原発を作り始めたころから、100基の構想があったということです。今日本には54基あります。建設予定の物も何基かあります。最終的に120基だそうです。それらは国民的な合意もないまま作られていったのです。それに至るため極めて緻密な国家的戦略がとられた。その戦略は3つあります。(メモによるものですから少しは言い回しが不完全)
1、原発は安全という、緻密な説明というか証明。すなわち原発安全神話を作り出す。
2、学校教育。原発は安全、必要、といった教育を子供たちに行う。(これは最近新聞でも見ました。その教育をした校長先生が、子供たちにどう説明していいか悩んでいるとの記事)。また今日の朝日(夕刊)10面に資源エネルギー庁は、小学校高学年向けに作った副教材(福島第一原発の映像)のDVDの配布を中止したという記事。そこには「日本の原発は格納容器などに守られ、常に放射能も監視しているから安全だ」と案内している職員の姿が映っているとのこと。そのほか広報誌のこともそこには書かれています。
3、原発賛成の著名人、文化人を動員して宣伝。
これらのことが国家戦略としてこれまで続けられていたのだといいます。
これは戦前の軍国主義の方法論と同じであり、国民をある方向へ向かわせる国家戦略なのだというのです。そして原発反対を唱える科学者は、ドンキホーテと名付けられるらしい。
そして福島原発が何とか収束しても、それを機会にして原発を見直す方向に行こうとは考えてはおらず、ほとぼりを冷ましてまた作り続けるだろう。
そのほか今日の「不安社会」についてもいろいろ話されましたが、この原発のみにとどめます。

アメリカの原子力学者の言ったというスロー・デスの中に私たちは入ったのでしょう。しかしたとえそうであってもここから逃げ出すことはできません。同じ地震国であるニュージーランド(日本人学生が地震に巻き込まれたばかりの)は、それゆえ原発は作らないそうで(産業の違いもろもろあるにせよ)、それでその地に移り住んだという某有名人のようなお金持ちでない限りは。
またくだくだしい呟きをしてしまいましたが、もうこれで止めることにします。あとは自分自身の中で考えていくしかありません。
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